4月30日(火) 中間試験 ・能力と努力
試験が終わった。ここしばらくこのことがどこか頭の隅に引っかかって何をするのにも心にリミッターが掛かって悶々としていたのだが、ようやく開放された気分だ。
制限されるということが好きじゃない。仮にその制限外の部分を使わないとしても、自分の周りに枠があると思うだけで気持ちの悪いついたてが四方に立てられて視界を遮られている気がするのだ。
閲読の5課までが今回の試験範囲だった。試験勉強となればその5課までの部分を重箱の隅をつつくように漏れがなくチェックして覚え切れていない単語を調べ、文章を暗記し、出されそうな問題に対する答えを用意することになる。範囲以外のところを勉強しても当面の試験に対しては白費だからやりたくてもできない。
このやりたくてもできないというのが嫌なのだ。
細かいところは気にせずに、がんがん進んで目に触れる回数を増やすこと。これは自分が中国語だけではなくていろいろなことを勉強しようとするときのスタイルだ。なんかのゲームのような言葉を使えば、「経験値」を上げるのだ。実際の勉強の仕方で言うと、口語の教科書をガンガン進めている。もちろん知らない単語もいっぱい出てくる。一個一個調べながらとにかく読み進む。授業の進行が予習に追いつかれないようにガンガン進む。一冊教科書をやり終えたら次の教科書を買って進む。知らないうちに前の教科書の内容が簡単に思えてくる。使えなかったのが使えるようになってくる。
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頭で理解することと、実際に自分の体を使って覚えることとは違う。長い時間をかけてほんの上では複雑に見えてなかなか理解できなかったことが、いざ仕事の中で現実の形を持った事物として具体性を持つと簡単に思えてくる。いろいろなノウハウを詰め込んだ教科書や参考書は、人に何らかの知識を伝えることを目的にして作られている。といっても書面のスペースは限られたものだから自然と簡潔に要点をまとめて示されることになる。
僕らがそういうものを使って勉強しようとするときに知らず知らずのうちに行っているのは、まとめられ、圧縮された内容を解きほぐし、解凍して自分の言葉に変換し、理解しやすい言葉に直して吸収することだ。どんな簡単なことでも文章にして人に伝えようとするとき、簡潔にわかりやすく示そうとするほど、一目見たときに難しくなる。使われる言葉も難しくなりがちだ。優しい言葉で表そうとすれば総体が長くなる。長くなってくると今度はクドくなってくる。あちら立てれば此方が立たず。
個人的に経験で得るものは本の上で学ぶことよりもずっと多いと思う。なんにしろ手っ取り早い。面倒がりで不精な割りに知識欲が旺盛な性格だからなおさらそう思う。けれど世の中にはいろいろな人がいるもので、本の中だけで、それなりに・・・いやそれなり以上にいろいろな技術なり知識なりをうまく身に着けて、使いこなす人もいる。これまで僕はそういう人を何人か目にしてきた。そういう人と知り合うとこれは冗談でなくて本心から尊敬してしまう。自分にもそういう能力があったらよいなと思うのだ。
そう思う一方で、人の能力というのは少なからず努力というものなく身につけられるものではないというのが僕の考え方だ。努力もしないで羨ましがってばかりいるのは好きじゃない。努力することに誠実な人でありたいとは常々思うのだが・・・。
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